ぶんしょうのれんしゅう

あーもうわかったよ、あうとぷっとすればいんでしょ

焼肉をするとき焼肉の話題で盛り上がるのは忌避すべきこと

これはおおっぴらにはあまり言いたくないことだが、最近AbemaTVのAbemaビデオをよく見る。

最近見るジャンルが「恋リア」とカテゴライズされているものなのだ。「恋リア」ってなんだよ。ってまず思った。「恋愛」ならまだわかる。しかし、「リア」とは?曰く、「恋愛リアリティーショー」とのこと。昔で言うあいのり、テラスハウス、最近で言うバチェラーみたいなもんだ。

こんなもの明らかに10代の女子向けに作られている内容だ。しかしそれでもなお見てしまう。純粋に楽しんでみているというよりは、臭いもの嗅ぎたさのような気持ちで見ている。足の親指と爪の間の垢みたいなものだ。あれは臭いものではある、まず間違いなく臭いと分類される匂いなのである。しかしそれでもなお、どこかに嗅ぎたみを内包している、あんな存在である。これは余談だが、飲み会で会社の先輩であの臭いにおいがたまんないんっすよって嬉々として話していたのを見てなんて愛くるしいんだと思ってしまった。そのくらいあれは是とも非とも判別し難い位置づけなんだ。

 要はそのようなある種斜に構えた見方をしているわけで、真剣に楽しんでいるわけではないと自分に言い訳をすることで、10代女子が見るような甘ったるい内容の動画を消費し続けている今日このごろなのだ。

★★★

そんな中でも高校生の恋愛の企画を見ていた感じたこと。情報商材のマルチビジネスくらい中身がない。ほんと、やってることマルチと一緒。

とある企画では、見知らぬ男女が旅行してその中で交流を深めて最後に告白をするというもの。

基本は男女8人くらいで行動するのだが、時折2ショットで話をしたりする。その時の話が本当に中身がない。やれ今誰が気になっているだとか、やれ好きな人には緊張して話せないだとか、やれ企画内容について云々を話したり。

話をしていく中で好きになるためのその実体はどこにあるの?実体がどこにあるのかわからない。

なんでみんなスラムダンクとか刃牙の話をしないでその人の人間性とかを判断できるの?もし告白成功したあとは、誰が気になってるとかの話はもう無くなるんだから、その後に日常的にどんな話をするんだろうこの子達はってのが見えてこない。

これはまるでマルチ商法ではないか。利益を上げるその実体はなくて、しかし実体があるかのようにふるまう。誰が好きで、他にも気になっていてとかは、その人の人間性という実体ありきで、それを前提として展開されるべき話なのに、それが全然なされていない。放送してないだけでちゃんとスラダン・刃牙の話をしているのかもしれない。しかし放送してくれないことにはそれを知るすべがない。

★★★ 

言い換えるならまるで焼き肉に行って、焼き肉で盛り上がっているかのような印象を受けた。これは焼き肉に行く際に最も忌避すべき行動だ。話が盛り上がらないから、やれ火加減がどうだとか、やれホルモンの脂が落ちて火が上がったところで盛り上がったり、やれ網交換のタイミングについて意見を交わしたり。これらにはすべて実体はない。そんな内容に話の流れを支配されてしまうほどしょうもない話をしていると言わざるを得ない。これがBBQや珍肉となれば話は別であるが。

★★★

とはいえ、じゃあ自分がこの場に高校生の皮を被り参加したとて、ど陰キャ丸出しで告白成功どころか、オンエアにもほとんどのることがないくらいに見せ場を作るアクションする起こせないと思う。そういう意味では彼らは自分より圧倒的に秀でている部分があることは確かだ。

ということで、しばらくはウォッチを続けていくかもしれない。自分は何を目的としてみているんだろう。ここからなんの学びがあるのだろう。そんなところを探しながら消費をしていこうと思う。

信頼に足る情報だと言うための方法論

今の今まで政治には無関心だった。一時期、「もうおとなになったので政治や経済についてちゃんとわかるようになっておきたいな」そう思って日経新聞朝日新聞を購読していたことはあったが、それも頓挫してしまった。 

政治に期待しても無駄だ。そんなことよりも技術で解決できることのほうがたくさんある。技術的なインパクトで世の中を動かしていく方が性に合っているし、合理的だ。そんな考えからか、政治や経済に関する知識は諦めて収集することもなくなっていった。

◆◆◆

しかし、最近になってサマータイムの導入が検討されているというニュースがITエンジニア界隈では専らの話題だ。経験の浅い若手エンジニアの自分でもわかる。これは割に合わないコストを払うことになるなぁと。それはある程度タイムゾーンや時間についての某かの開発に携わったことがあるからだ。もっと言えば、自分がエンジニアであるからだ。

しかし、政治家の人はどうだろう。わからなくて当たり前だ。わかられてたまるかと。それは畑が違うのでしょうがないとして、しかし事実としてはこのサマータイム対応が割に合わないコストを払うことになるのだ。ここでその分野の知見がない政治家がたどるべき思考とはどんなものなのだろうか。

まずは自分で情報収集して調べてみるべきである。しかし専門家になるわけではないので、時刻の変更がどんな仕組みで行われているのかを詳細に知ることはその人の仕事ではないだろう。unixtimeがうんぬんは理解してくれなくていい。IT以外にも様々な国策・法律を扱う中でITに全振りするのは賢明ではない。

と、情報収集では技術の論理性がわからないのでどう調べればいいか。そうなると論理そのものの正当性というよりかは、「この人が、この会社が、言っているんだから確かなのだろう。」というソースの正当性を当てにするよりほかない。

ではそのソースの正当性はどうやって計ればいいのか。

◆◆◆

最近sagawaのフィッシングサイトが流行ったときにNHKがその対策として周知した愚策がトレンドマイクロの監修の策だったというのは記憶に新しい。

トレンドマイクロがこのIT界隈ではまあ糞という烙印を押されているというのは自分もこの件で知った。しかしこの件以前もトレンドマイクロ名前は聞いたことがあった気がするし、そこそこ有名でちゃんとしている企業の体をなしていると見えた。ちゃんと調べてみると、東証一部上場企業で、従業員数5,970名、売上高1,488億1,100万円。IT素人がこんな企業をどうやって「胡散臭い適当なことを言う、IT界隈ではダメ認定されている企業」だと言い切ることができようか。

NHKの記者がこの会社に監修を依頼するのはだめなことなのか。NHK記者がITリテラシーもっと高くあれよというのはそれはそうかもしれないが、専門はITではなく報道である記者に多くのことを期待するのはいかがなものかとも思う。自分ではわからないのでその道に詳しい人に監修をお願いする。これは真摯な態度ではないか。

結果としてトレンドマイクロに監修させたのは悪手だったとして、では、何をもとに監修する企業ないし人を選べばよかったのか。その方法論を知りたい。

例えば自分が記者になったとして食品についての報道をする必要があり、自分にはその知見がないので、企業に監修をお願いしたいと考える。このときにどういう方法論で企業選定をすればいいのか。

歴史も長く、上場しているし、従業員数も多くいて、売上も充分にある「味の素」に監修をお願いするとする。このとき食品メーカー界隈では味の素は実際には技術的な部分では全然ダメだという暗黙の認識があったとして、いかにしてそれに気づくことができようか?IT系ならまだいい。いろんな人が情報発信をしているからたくさん情報がある。しかしその他の業界ではそもそものそういったクチコミ情報や実情などが出回ってないことも多くあるのではないか。そんな中で信頼に足る根拠とは一体何なんだろうか。

トレンドマイクロがクソなことに、トレンドマイクロがクソということを知らない状態からどうやってたどり着けるか。その一般化できる方法論を知る必要がある。

◆◆◆

なぜ自分は今トレンドマイクロが糞だと思っているのか。それは会社の先輩複数人が糞だと言っていたからだ。その先入観もあり、Twitterで見た何やらその道のプロっぽい人が糞認定していたからだ。そしてその人をフォローしたことで、その人がRTしたトレンドマイクロは糞。というTweetをよく目にしたからだ。つまり因果関係のない複数の情報源から情報を得たことで、自分の中でこれは「信頼に足る情報」と認定されたわけである。

ここで注意が必要なのは、「因果関係のない複数の情報源」という点だ。

とある人をフォローしたことによって、その人のRTするツイートをよく目にし、その内容がトレンドマイクロは糞という内容であれば、それはたとえ複数のTwitterユーザーのTweetだとしても因果関係のない複数の情報源にはならない。RTする人のフィルターにかかっているからだ。

と、書いてみたがそもそも果たして「トレンドマイクロは糞」という情報が本当に正しいかどうかはわからない。そもそも「糞」というのは事実ではなくて、感想あるいは意見だ。  

専門家ではないものとしてはまず意見と事実を分けて考える必要があるな。  

サマータイムにおいては、導入が大変/頑張ればできる等の定性的な議論ではなく、具体的な数字で議論をするべきなのだと思う。  

具体的にサマータイム導入になった際に、どのシステムに変更が必要で、そのシステムの改修にはどれくらいの工数とコストがかかるのかを試算して、その対価と得られる価値を天秤にかけるという方法が良さそうだ。  

◆◆◆  

こうしたことをやるのがディベートだと聞き及んでいる。  

落ち着いたらディベートをやってみたい。(って言ってる間は永遠にやらないだろう)

 

「デーモンの召喚」は名詞ではなく動詞

ひとつの事柄を理解しようとするときに、なかなか理解できずにいることだ。そんなときに、他の人は簡単にその概念を理解している。そうした状況に陥ってしまうと、自分の理解力のなさや、モノを知らなさを認めたくなくて、「ちょっと待って、あなた本当にそれをちゃんと理解してる?ふんわりとした知識だけ獲得して理解した気になってるじゃないの?自分はそれを理解しようとしているから時間がかかっているんだよ。全く。そんなうわべだけの理解だったら、自分だってとっくにできているよ。しかしその先の問題に今直面しているんだよ。」と誰も聞いていない言い訳を一人で必死にしてしまう。

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しかしこれは、ある意味正しいあって、しかるべき理解をしないでフレームワークだけを理解して使えるようになれば、その場では何とかなるかもしれない。ただ、その先のことを考えた時に、多少なり時間をかけてでも自分の腑に落ちるまで噛み砕く必要がある。

★★★ 

本当に理解しているかどうかのリトマス紙がある。

それは、人に説明すること。説明することで、自分の理解が曖昧だった部分が浮き彫りになる。言語化することで、曖昧だった概念をより明確に整理することもできる。説明するということは、これは銀の弾丸といってもいいのではないだろうか。

しかし、そんなに簡単に説明する相手を見つけることが難しい。相手の時間を取らせることにもなる。そこで、自分が教わった方法は、自分の隣にめっちゃかわいい女子高生を召喚する方法だ。もちろん初恋の相手でもいい。よく行くカフェの店員さんでもいい。完全にゼロから作り上げた幻影でもいい。とかく、自分が説明するためのモチベーションを保てるような人を自分の隣に召喚するのである。ここで言う召喚は裁判などで使われる、特定の日時に消したバスに来ることを命ずることではない。どちらかと言えば、デーモンの召喚の召喚だ。

 ★★★

さて、表題の"「デーモンの召喚」は名詞ではなく動詞"であるが、召喚する行為がモンスターカードになっているので、「デーモンの召喚を召喚」って言ったときにフィールドに現れるのは、「デーモン」ではなく、実体のない「召喚」という概念であるはずなのに。。。

なんでもかんでも言語化するマンになりたい

先日今ブームになっている落合陽一の講演会に行ってみた。

小一時間暗い話をしていたのだが、その中で今後の生活に活かしていきたいと思ったことが、なんでもかんでも言語化するということだ。

複雑な構造や、自分の考えを言語化するというのは、全体の構造や、言葉の意味や印象を理解して使う必要があるので、普段から訓練していないとぱっとその場で出てくることは難しい。そのことは前々から理解していて、そのためにこのぶんしょうのれんしゅうを始めた。こうした自分の「思ったこと」を言語化するというのは割りと多くの人がやっているような気がしている。そのアウトプットの形が自分の場合は文章で、他の人であれば、人に話すことなのかもしれない。

★★★

今回の講演での気づきは、自分の「感じたこと」を文章化する意味だ。

例えば、美味しいものを食べたときに、ただ「美味しい〜」と言っているだけでは、美味しい以上のパラメータを持つことができない。毎回「美味しい==True」の条件分を通すだけの単純なフィルターになってしまう。

最終的なアウトプットとして美味しい/美味しくないと2値に評価することはいいとしても、その過程で様々な要素が絡み合って自分の感覚をなしているはず。その一つ一つの要素を探し出して感じることで、より味覚を研ぎ澄ませることができるそう。

その探し出して感じるために有用な方法が言語化するということなのだそう。

このパターンでは、言語化することそのものが有意義なものなわけではなく、言語化するために、自分の中で考え感じる必要があるという点が有意義なものになる。

人に対してもコンピュータに対しても過度な期待はしすぎない

プログラミングをしていると、既存のものを使い回すという事は重要なことだとされている。すでに誰かが作ったものがあるならば、それを利用しない手はない。テコを働かせるのだ。車輪の再発明を避けるとも言う。そうなると、その中身は完全には理解できなくとも、ある程度予想して使うことになる。そうしたソフトウェアや、ミドルウェアを使うに当たって「は?なんで動かないの?おかしいだろこれ」と動かないことにイライラすることがしばしばある。正しく動作することが前提とされてしまっていると、動かないときのストレスが大きくなる。しかし最近になってこうも考えるようになった。「そもそも自分は、なぜ動くと思ってるんだ?何を動くと勝手に思い込んでいるんだ。」と。

正しく動作するためには、そもそもその内部でどんな技術が使われていて、どんなことが必要とされているのか。そういうことをひとつひとつ考えていくと、よくよく考えてみたらこのミドルウェアがないのだから動かないのは当たり前だ、というような答えにたどり着くことが多い。最初からそのソフトウェアは完璧に動くものなぞと期待しないこと。そうした視点を持つことでより快適にエンジニアライフを過ごすことができる。

◆◆◆

同様のことが人間関係においても言える。人は他人に対して過度な期待をしてしまいがちであると思う。特にそれが近しいものであればあるほど期待することは大きくなってしまうのではないか。しかし、親しき仲にも礼儀ありというように、他人はいつまでたっても他人なのである。なんでこれをやってくれなかったんだ、と不満に思うことがあるかもしれないが、そもそもなんで自分はそれをやってもらえると思っていたんだ、とそもそもの前提条件を今一度考え直してみるということが日常生活において有用な気がしている。

◆◆◆

これは人間関係以外においても、日常生活で使う場面は多い。例えば筋トレをしているがなかなか筋肉がつかなく、「なぜ筋肉がつかないのか」と嘆くのではなく、「自分はこのやり方でそもそもなぜ筋肉が付くと思っているのか」と前提を改めて考えてみることで、食事や睡眠の重要性に気づくかもしれない。

 

これは、もっと早くから身につけておくべき習慣で、例えば中学高校の部活で、当時の自分としては割と練習が頑張っていた方だと思うが、今にしてみればその練習にどんな意味があってなぜその練習をすれば上手くなるのかという考察がなかった。「そもそもその練習でなぜ上手くなると思っているのか」と前提を考え直すことでより実りのある部活動生活が送れたのではないか。あの頃の自分には物心というものがまだなかったようにさえ思う。

しかしこう思う事はある意味いいことないかもしれない。

願わくば10年後の自分をして、「あの頃物心というものがまたなかった」と言わしめたいところではある。

数学ガールを読んで

数学ガールを読んだ。

正直に言うとこの本は何度も挫折し、途中で読むのをやめたことがある本だ。

最初のほうわかなり読みやすく、内容も優しかったが、母関数のあたりから、ん?という場面が多くなってしまい、そもそも数式を追うことを一旦放棄するという読み方で進めてしまった。今回読んだのも、そういった読み方をして最後まで読むことができた。なので、またしばらくしてからもう一度読み返してみて、次はちゃんと数式を自分の頭で展開し説明できるレベルで読み込んでいきたいと思っている。

★★★

著者の結城浩さんは、ツイッターでもよく発信をしていて、プログラミング関係の話をよくすることから、フォローしていて普段から目にする機会が多くある。

なので、数学ガールそのものを楽しみつつ、結城さんの思考や伝えたいことをできるだけ汲み取ろうとしながら読むということを無意識にやっていたように思う。この数学ガールの中で自分が感じた結城さんが伝えたとは次のようなこと。

 

学ぶという事はしっかりと自分の頭で考え何より楽しむことが大切。

誰もが初めは何も知らない状態から始まる。

思考の試行錯誤を大事にする。

言葉を大事にする。

学んだことを活かす。

★★★

数学を楽しむということを旅人と呼んだり、その試行錯誤の過程を旅と呼ぶ。ある数列をワルツと呼んでみたりする。

しっかり頭の中の思考を言葉にして論理の道筋を立ててくれることが素晴らしくいい。大切なのはその式展開そもものではなく、なぜそんな式展開をしたくなったのか・する必要があったのかだ。

そして何より、しばしば思考が失敗することがまたいい。何も間違わずに正解することだけがいいことじゃない、間違えてしまってもその思考をするプロセスがとても重要なのだという考え方をできるようになった。そしてその失敗は単に失敗には終わらず、違う形での有用性が見えてきたりする。

そしてこの中では言葉をとても大切にしている気がする。これは普段の結城さんのTwitterを見てのバイアスがかかっているが。数式は厳密なものであり、言葉は曖昧さを含んでいる。それが良くもあるが、こと数学を考えるときには注意が必要だ。自分がぶんしょうのれんしゅうを始めたもの、もしかしたら結城さんの言葉を大切にしようという思想の影響を受けていたのかもしれない。

最後に、学んだことを活かすということ。この本は章ごとに内容が分かれているが、前までの章で獲得した「武器」を使って問題に立ち向かっていく。途中、突飛なミニトピックみたいなものが入ったりして、それはそれで面白いがちょっと本筋とはなんかずれるな〜って思ってたものが最後に出てきて、「これはあの為の布石だったのか〜」と感心してしまった。学んだことを活かすというのはとても重要で、自分が知っていることを使って知らないことを理解する。というのが学ぶことの基本。自分の仕事にもこの思想を持ち出して行きたいなと企んでいる。

★★★

と、ここまで大仰なことを書いてきたが、実際のところは少し違う。

確かに数学ガールは面白く、上記のような学びは得られたので読んでよかったいい本だった。しかしながら、数学そのものに「ほえ〜、数学めっちゃおもしろい!」ってなるほどまで興味関心をそそられたかというと、そうでもない。確かに面白いが、寝食を忘れるほどまでに没頭できるものでもないなと思ってしまった。そんな自分に少し失望したというのが正直なところとしてある。こうした学問に純粋に興味を駆り立てられて寝食を忘れるほどに没頭したいという思いはあるのだが、そうはならない。そもそも興味を持ちたいと思ってる時点でその資格はないのかもしれない。好きになりたいと思ってる時点で好きではない。なんかそんなワンシーンを恋愛漫画で見たようなきがする。そんな自分でも好きになってしまう人がきっと現れるはず。来るそのときまで自分磨きをしとけって話かな。

良い承認欲求と悪い承認欲求

マズローの欲求5段階説というものがある。

生理的欲求

安全欲求

社会的欲求(帰属欲求)

尊厳欲求(承認欲求)

自己実現欲求

 

 100年以上前に生まれた彼が提唱したこの説は、いまだ一定の支持を得ているらしいことから、これは概ね正しいのだろうという前提で話を進める。

 

現代社会、こと日本においては生理的欲求、安全欲求はほとんどすべての人間が満たしているだろうことと思う。

問題となってくるのはその上からだ。

社会的欲求はひとまず横に置いておいて、承認欲求について考えたいと思う。

 ★★★

Tik Tokというアプリをご存知だろうか。

どうやら中高生にはやっているらしいアプリだ。

アプリを立ち上げてみると、何やら可愛らしい女の子が音楽にあわせて口パクをしてみたりパントマイムらしきことをしてみたりしている。

率直な感想としては、「かわいい。」だ。

シンプルにかわいい。 しかし自分の感じたそれは、芸能人やアイドルを見るに感じるそれと同じものであり、それを一般人に求めるものではないなと思い、いささかの違和感を感じた。

こういったアプリに動画をアップしている中高生を見ると、まさに承認欲求の権化だなトと思う。今流行りのインスタ映えなんかもこの類だ。

自分は生まれてこの方こうした方法で初任給を満たす人間というものが理解できなかった。恥ずかしいことだとさえおもった。しかしなぜだろう、最近になって承認欲求を満たすということは別に何も問題などではないではないかと考えるようになった。

そもそも人間は承認制いたいという欲求を持っているものなのだ。それを否定することこそ問題なのではないだろうか。

要はやり方の問題である。

良い承認欲求と悪い承認欲求があると仮定してみる。

悪い承認欲求とはなんだろうか。人を貶めるここで得られる承認欲求は悪い。また、自分を偽って得る承認欲求も悪い承認欲求である。逆にこの2つの要素を満たしていなければ、それはいい承認欲求と言って良いのではないか。ここで先ほどのアプリに動画を投稿する可愛い女の子可愛い女の子の承認際どちらの承認だろうか。何も他人に迷惑をかけているわけではない。そして自分を偽っているわけでもない。となればこれは良い承認要求なのではないか。

Instagram投稿する女子もまた承認欲求野本めぐさんなのではないだろうか。

★★★

承認欲求モンスターという言葉は割と目にすることがある。しかし、安全欲求モンスターという言葉はキイタこともないし、検索しても見事に一件も引っかからない。自己実現欲求モンスターなどと言う言葉も同じだ。

なぜこうも承認欲求だけか悪者扱いされてしまうのか、不遇でならない。

もっと人は、承認欲求を満たしていこうとしていいのではないか。そう思えた今日この頃でした。

Tik Tokさん馬鹿にしてごめんなさい。