ぶんしょうのれんしゅう

あーもうわかったよ、あうとぷっとすればいんでしょ

人に対してもコンピュータに対しても過度な期待はしすぎない

プログラミングをしていると、既存のものを使い回すという事は重要なことだとされている。すでに誰かが作ったものがあるならば、それを利用しない手はない。テコを働かせるのだ。車輪の再発明を避けるとも言う。そうなると、その中身は完全には理解できなくとも、ある程度予想して使うことになる。そうしたソフトウェアや、ミドルウェアを使うに当たって「は?なんで動かないの?おかしいだろこれ」と動かないことにイライラすることがしばしばある。正しく動作することが前提とされてしまっていると、動かないときのストレスが大きくなる。しかし最近になってこうも考えるようになった。「そもそも自分は、なぜ動くと思ってるんだ?何を動くと勝手に思い込んでいるんだ。」と。

正しく動作するためには、そもそもその内部でどんな技術が使われていて、どんなことが必要とされているのか。そういうことをひとつひとつ考えていくと、よくよく考えてみたらこのミドルウェアがないのだから動かないのは当たり前だ、というような答えにたどり着くことが多い。最初からそのソフトウェアは完璧に動くものなぞと期待しないこと。そうした視点を持つことでより快適にエンジニアライフを過ごすことができる。

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同様のことが人間関係においても言える。人は他人に対して過度な期待をしてしまいがちであると思う。特にそれが近しいものであればあるほど期待することは大きくなってしまうのではないか。しかし、親しき仲にも礼儀ありというように、他人はいつまでたっても他人なのである。なんでこれをやってくれなかったんだ、と不満に思うことがあるかもしれないが、そもそもなんで自分はそれをやってもらえると思っていたんだ、とそもそもの前提条件を今一度考え直してみるということが日常生活において有用な気がしている。

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これは人間関係以外においても、日常生活で使う場面は多い。例えば筋トレをしているがなかなか筋肉がつかなく、「なぜ筋肉がつかないのか」と嘆くのではなく、「自分はこのやり方でそもそもなぜ筋肉が付くと思っているのか」と前提を改めて考えてみることで、食事や睡眠の重要性に気づくかもしれない。

 

これは、もっと早くから身につけておくべき習慣で、例えば中学高校の部活で、当時の自分としては割と練習が頑張っていた方だと思うが、今にしてみればその練習にどんな意味があってなぜその練習をすれば上手くなるのかという考察がなかった。「そもそもその練習でなぜ上手くなると思っているのか」と前提を考え直すことでより実りのある部活動生活が送れたのではないか。あの頃の自分には物心というものがまだなかったようにさえ思う。

しかしこう思う事はある意味いいことないかもしれない。

願わくば10年後の自分をして、「あの頃物心というものがまたなかった」と言わしめたいところではある。