シュレディンガーの盗撮
知らぬが仏という言葉がある。
例えばよく聞く言葉で、「浮気はバレなければいい(許す)」と妻が言うシーンを目にする。
これは言葉のあやのように思える。
これではまるで浮気をしてもいいというように聞こえる。
しかし、実態としては少し違うはずだ。
どんな形にせよ、浮気と発覚した時点でそれは許さないつもりなのに、まるで浮気に関して寛容であるというような錯覚を与える。
そう考えてみると、これは実はやる側の論理ではないか。
相手に知られることがなければ、相手を傷つけることもない。よって自分が罪悪感を感じることはない。つまり相手にバレない限りは許されうる行為なのだと主張しているようなものになってしまう。
実際問題、そういう主張を隠しきれていないことを知らずにこの言い回しを使っている人もいるのかもしれない。一方で、そうした意図ではなく、本当に寛容なスタンスを示すためにこの言い回しを使う人もいるかもしれない。
そうであれば、正しくは「もし浮気をしているのならば、バラさないでほしい」ということではないだろうか。
それならば納得のいく言い回しだ。
つまりは、知らぬが仏ということわざに帰着する主張なのだ。
★★★
知人の知人に電車で盗撮をしている人がいると聞いた。
かわいい人を見かけたら、その人の顔の写真をこっそり撮るのだという。
あまり法律には詳しくないが、それはおそらく犯罪であろう。
そして当然、社会通念上悪しとされている。
さまざまな観点から見ても、これは完全に悪い行為である。
では果たして、このとさそうされた女の子はその事実を知りたいと思うかどうかという問題がある。撮られた写真がネット上に公開されでもしない限り、その女の子には実害はないはずだ。あとすればそれは知らぬが仏の案件なのではないだろうか。正義感の強い人間がその事実を知って、こんなことがされているよとその女の子に伝えるとすると、女の子わ電車に乗るたびに誰かに盗撮されているのではないかという不快な思いをし続ける人生を変えることになるかもしれない。
だからといって盗撮という行為が容認されるわけではない。しかし、怒ってしまったことについてわざわざマイナスであることを知らせる必要はあるのだろうかと思ってしまう。
なんだかモンティホールの問題みたいだなぁ。全然違うか。